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歌枕の土居町入野界隈の歌碑・句碑一覧
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山中関ト・時風のロマンと入野の一茶」江戸中・後期俳諧考
   
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UPDATE 2009.02.11

(はじめに)
 江戸中期、当所入野の庄屋、山中貞興(九代目山中与市右衛門)と山中貞侯(十代目山中与市右衛門)、それぞれ「関ト」・「時風」の俳号をもつ父子の俳人である。
 その当時、当所入野油箱(地名)の出で医生として京都に住み、公家の館に出入りのあった妻鳥隆運等と「歌枕に歌われた入野は当国当所である」と京都の公家にはたらきかけ、当時の西園寺大納言や公家たちから「入野」を詠んだ短冊七首を下賜された。
 土居神社には、明和二年乙酉8月(西暦1765年)に、その中の五首を奉納するとの関トの筆による扁額が、今も拝殿正面に掲げられている。入野の顕彰に成功した子の時風は、その折り、入野を世に出さんとして、世の風流人たちに檄して広く吟詠を募ったのである。
 
「人知らじ入野の明の玉あられ」 「世の中をおもひ入野の萩と月」
の冒頭の二句は、その際の檄文の中の時風の句である。そして、〜(途中檄文略)〜その檄文の最後は 「諸君見聞きの折りに来たり給え 拾弌斎時風」とむすんでいる。爾来、竹阿や一茶をはじめ多くの文人・墨客が、当所入野を訪れている。
 平成七年(十六代宮司)には、寛政七年の一茶来遊ゆかりの地入野の土居神社境内外に、氏子の寄進により一茶来遊二百周年記念事業の一環として「関ト」「時風」「錦鳥」をはじめ当時の地元俳人を顕彰して、句碑・歌碑が多数建立された。
 現在の土居神社は、入野村の神功皇后他三神を祀る住吉神社、畑野村の天之御中主神を祀る大元神社、浦山村の水波売姫神を祀る奥姫神社の三社を明治四十三年に、合祀して、現地に社殿を建築し社名を土居神社と改めたのものである。 江戸時代の当地の神社は、渺々たる一面薄の生いしげる原に祀られた入野の住吉明神である。
 神社誌によれば、その昔、南の法皇連山の分水嶺・二ツ岳(1600余b)に源を発する清流浦山川の川沿の入野の里の奔流をふせいで、貞観二年には大阪の墨之江より゛すみよしさん″を勧請し祈願をしたものであると伝う。住吉は歌神の住吉神社でもある。
( 関ト・時風父子の二大ロマンと入野の一茶)
 信仰が深く庄屋の関ト・時風父子は二代にわたり、それぞれ願主となり入野の原に鎮座の「歌神住吉には歌」を奉納し、隣接の医王寺原の「医王寺には芭蕉、淡々の霊をとむらい塚」を建立した。研究熱心な時風は、前者には「入野の原の顕彰」と後者には「両塚を建立し発句塚」にと、神仏の御加護により二大プロジェクト(仮)を展開し、雄大なロマンを求めたのであろうか。もっとも後者の方は、関トの没後三十二歳で十代目を継いだ子の時風によって建立されたのであるが、前者の方の運動には、父子に関トや社家の越後も加わっていた節が、町教委蔵の明和二年の短冊奉納箱や署名はないが関トの書から窺える。
 時風と一茶のその知名度は、今日において、勿論、論をまたないが、両者に共通する点は、和歌や俳諧に対する並々ならぬその研究心と若き頃より発揮された異彩ふりであろう。山中家の由緒書によると「予州入野の神童」拾一歳で父関トの願いにより号を与え門生を許すとの師松木淡々の記述がある。因みに、その伝系は 芭蕉ー其角ー淡々半時庵ー時風拾弌斎 である。
 両者の大きな相違点は、かたや、地方の富豪の庄屋であり、大きな館に住み、訪れる風流人をもてなして、俳道を探求した親子二代にわたる地方の俳人である。つまり、遊俳である。一方は、今日は東、明日は西へとあてども無く富豪の家に泊まりながら歌仙をまくという漂泊の俳諧師である。つまり、プロの業俳である。 
 寛政七年の正月(旧暦)を観音寺の専念寺で過ごした小林一茶は、松山をめざしている。その往路、自筆紀行文によると、八日に専念寺を立って土居の島屋に泊まり、九日入野の暁雨館を訪れている。また、その詞書のなかで入野の里を名所とし、次のように述べている。
 「九日 入野の暁雨館を訪ふ 梅かゝをはるはる尋ね入野かな」詠み、此里は入野てふ名所にしあれは世々風流人のことの葉のあれはやつかれも昔ふりの哥一首を申侍る とあり、「はろはろに……」の反歌をともなった長歌一首を詠んでいる。
 往路は「入野の風君を訪ふあはず 霧晴れてゐる野に曇るあるし哉 東武二六庵 一茶」の句(いつの作句か諸説あるが)を残してすぐ近くの入野の原に向かった一茶ではあったが……。
 復路は暁雨館に三泊している。復路の記述には懐紙のことには全くふれていないが、懐紙では、復路に手を入れたとみられる「道遠ミ……の反歌」をともなった「長歌」に推敲している。その上で、「懐紙」には新しく「俳諧発句」の部分を付け加え、紀行文にはない「山麻呂」と「むさしのゝ新羅房」の別号をつかい、引首印」や「落款」の押印がある。和歌の題も「長歌一首」から「過入野原作歌一首」に改めている。恐らく、清書したものとおもわれる。
 行戻りに入野の里を逍遙した一茶は、時風の此の二大プロジェクトの雄大なロマンに共感し、懐紙に「山麻呂」「むさしのゝ新羅房の別号を認め、時風へのプレゼントとしたのであろうか。
 キワードは、懐紙にある。この別号については、星加本では、「山麻呂」は万葉の叙景歌人「山部赤人」「柿本人麻呂」の「二歌聖」を、「新羅房」は俳聖「芭蕉」の「風羅房」をもじっているという。
 懐紙のおわりの発句「行戻り尋ね入野の花見哉 むさしのゝ新羅房」に俳聖「芭蕉」を意識したとみられる「むさしのゝ新羅房」の別号をつかっているところから考えると、この懐紙は、長歌の「山麻呂」の別号と共に、復路の三日の間に両塚に詣でた上で遺したことを窺わせるに足る十分なものであろう。
 自筆紀行文の復路にあるように、一茶は、三泊の間に医王寺の俳人泰山和尚とも同行した一茶は、同時に、山中家には、「芭蕉と淡々捧墳前の二葉」の短冊も遺している。この短冊も復路の医王寺に詣でた折りに詠んだであろうとみるのがごく自然であろうと考えられる。この短冊は季語の上から秋に詣でたのではの説もあるが、山中家に遺された短冊帳「両塚の巻」には、この二首の短冊と並べて添付されているのは、北条の俳人の春の句である。当時の俳諧は、季語にはもっと自由であったともいわれる。時風は翌年の秋寛政8年9月6日に亡くなっている。
 いずれにしても、「入野の原」を逍遙した三十三才の若き漂泊のプロの俳諧師一茶は、師の竹阿とも風交のあった五十八歳の時風の雄大なロマンと壮挙に 同化し,昔ふりの歌(長歌・反歌・俳諧・発句)を詠んだであろうと思われるのである。
 そして、それは、この懐紙のおわりにあるように「名所入野の里」を行戻りに逍遙したことによって完結させ、時風にお礼に懐紙に認めて正式に詠進したと思うのである。つまり、前半の長歌の部分は求道的な真摯な一茶、後半俳諧部分は諧謔味のある一茶と二面性を併せもっているのである。「山麻呂」と「新羅房」そして、引首印(因某不@・インボウフウチュー)と落款(一茶)のある珍しい懐紙である。
 時風のロマンに共感し、同化した一茶のすばらしい王朝ロマン風の叙景詩であり、郷土を詠んだ貴重な文化財である。今日、地元のものでもこのような風流韻事のことを知っている人は極めて稀である。また、一茶がなぜ観音寺の専念寺からまっすぐに入野を目指したかもあまり語られていない。風化し忘れ去られようとしているこの時にあたり、改めて関ト・時風のロマンを顕彰したいものである。
 まさに、時風の檄文の中にある「天有りて地有り地有りて人有り」の「天・地・人」の三つが揃ってはじめて達成できるものであると思う。入野の顕彰に尽くされた先人の先見性と旺盛な探求心、また、風雅の道に財を傾けて郷土の発展に貢献されたことに敬意を表するものである。
 土居神社の境内には、当時の時風のロマンに応えて投句した地元の俳人の句碑が建立されている。表には、花に蝶 蝶にまた寄る小童 呉天、そして、その碑蔭は次の詞書が刻まれている。「花守花を知らず虫の巣だけど聞き人なし人有りて諸好士の言の葉を集むるは時風のぬしの神妙ならんかしく 呉天印」とある。土居村大庄屋の 加地呉天(1719〜1797)は、時風の壮挙を称えているのである。
 なお、「関ト・錦鳥・時風」の碑は、拝殿北側に南面して、右から 「時風の歌碑」、真中に「関トの句碑」、左に「錦鳥の句碑」が建立されている。また、入野を詠んだ地元の俳人の歌も多く短冊帳にのこされている。      
            「古歌遺る入野の里に一茶坊   十六」
(現在の入野のはら)
 歌枕の名所「入野の原」は、現在、土居神社の社有地・神苑として、また、土居町のススキが原入野公園として桜の名所となり、春は遠近からのおおぜいの花見の人々でにぎあう。平成七年に境内外に建立された碑の句や歌には、花に関わる句や歌を詠んだものがあつめられている。
 探訪の折りは、句や歌の中に、どんな花が、また、いくつ詠まれているか等々往時に思いを馳せ逍遙しながら探ることも一段の詩興をそそることでしょう。
           「やつがれは山麻呂なれと新羅房 十六」  

(医王寺)
 土居神社参道東石の大鳥居から南百b足らずの入野の原に隣接した医王寺原には、山中家の累代の墓地や医王寺(小堂宇)があり、その入野山の山麓南斜面には時風の建之(安永二年1773〜天明八年1788)した「芭蕉塚」と「淡々塚」がある。往時は、関トの室「かど」・俳号錦鳥が妹「みち」と建てて風交をあたためたと伝う妙照閣もあったという。一茶をはじめ暁雨館を訪れた多くの俳人たちが、来遊のおり、両塚に詣でて句作をめぐらしている。
 また、昭和十六年頃には、山中家の番頭や総代の肝いりで西国三十三番のミニチア版もできて春は賑わったものである。その最終の観音さんは、医王寺に入野山麓の南山から、丁度、私の先祖代々の墓の横に道が通っておりそこを下りてくるようになっていた。芭蕉、淡々の北面した二塚の前には、樋で水を引き池があり、庭もあって、私も子どもの頃には、医王寺の中を通って、二塚の前の此の池の水をもらって、すぐ南斜面にある先祖のお墓にまいったものである。
 今は、高速道の開通にともない側道用地に買収となり、塚も観音さまも共に、北へおよそ三十b程移遷されている。我が先祖の墓地も大鳥居の東およそ50bのところに移設されている。
 現在の塚は東面して建てられている。医王寺への途中の阿部家の墓地(辞世の刻まれた俳号阿部鼡兄)には、往時を偲ばせる椎の巨木が今も残り、この地一帯、昔は聖地であったことを物語っている。 
           「夏木立椎の木のある両塚 十六」
(まとめ)
 世の中や自然が大きく激しく移ろい行く中にあって、当所入野は、土居三山の真中に聳え今も変わらぬ霊峰二つ岳の麓・清流浦山川のほとりの美し処である。 そこに生をうけ育ったものとして、当地に遺された「不易流行」の世界や先人の「雅」にふれ、「恩故知新」そのルーツを探り、後世に伝えていかなければならないと思うものである。
 江戸時代中期・後期の当地の最も大きな風流韻事の一つである「山中関ト・時風父子二代にわたる雄大なロマンと入野の一茶」に焦点を当てつつ、今日への「関ト・時風」の想いをホームページに託し、歌枕ゆかりの地「入野の探勝」・「花鳥諷詠」のために伝えたく一助になればと開設を思い立ったのであります。
 参考 星加宗一本山上次郎本。「一茶を立ち寄らせた俳諧の里土居」神社誌。郷土史。第十五回愛媛県農事大会記念 大正三年宇摩郡案内。俳諧寺一茶保存会一茶句碑。両塚の巻短冊帳。教育委員会蔵 山中家資料。愛媛の偉人・賢人。愛媛の古庭園。漂泊の俳人小林一茶。俳諧源流考。教育委員会編 土居の近世俳諧史要綱。芭蕉の俤。伊予の俳諧。
 トップページのおわりにあたり、境内句碑に刻んだ先代(十五代宮司)の愛した「唯何と 有難ふふる 花の雨 時風」 と村上氏の解読された中の一句「残なく 散るを悋しむな 花の色 関ト」の花にちなんだ二句を掲句にかかげご案内といたします。          deniruno doigug 16
土居神社   公家より下賜短冊七葉   全国神社句碑巡りに紹介さる
暁雨館跡 時風の入野顕彰の檄文1 同左2  関ト入野顕彰の経過下書 同左2
医王寺の「芭蕉塚」と「淡々塚」 = 時風のロマン一茶の書
入野の原(現すすきが原)
二ツ岳

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