土居町入野のトツプ
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土居町入野の句碑・歌碑巡り

 土居神社神苑・入野の原&俳諧
歌枕の名所「入野のはら」界隈
万葉王朝ロマンから江戸中期・後期俳諧考
URL:http://www.eagle.ne.jp/~deniruno/
 
入野吟

「梓弓いる野の草の深けれは朝行く人の袖ぞ露けき    高辻三位  世良」
場所 ススキガ原梅園
歌碑 建立十五代宮司
詠者 京都公家高辻三位 世良
(た子ながきょう)

筆 星田真次 号山艸

   
法皇連山

土居三山の真中に
二ツ岳雄大な眺め。

・北山愛宕神社・秋葉権現よりの眺望。
・西峨蔵山には鉾石神社を祀る
   
入野吟

「すずむしやこれも入野の千代の草                     墨照」
場所 ススキガ原梅園
句碑 十六代宮司古稀記念

詠者 社家八代目家榮
俳号 墨照
 矢野丹後守
帰天 寛政元年38歳卒

筆  真跡拡大


霊峰二ツ岳

  
乙春亭にて
「雨かすむ貴地のあの山 めつらしや 一茶」
     句碑場所 乙春亭跡
 土居小学校東約100 米

     平成二年建立

・一茶寛政七年松山よりの帰途に詠んだという。上述の一茶の句は故郷信濃の黒姫の山脈を重ね合わせたか。
住吉宮に詣で
 「楽書の一句拙し山さくら   一茶」
 
場 所 神社社頭

建立年 昭和44年
揮 毫 西連寺住職
作 者 放浪の俳人
一茶寛政七年松山からの帰途住吉神社(現土居神社)に詣でて詠む。

世話人 入野山内菊次
「紅葉の入野の原
 ススキが原には染井吉野桜の中に山さくらが数本ある。境内の山さくらは、その中でも一番色香がすばらしい。
若き時代の一茶も名所として訪れ詠んでいる

左端の句は中七句と下五句をくらべたか

「英魂碑」

江戸時代の「いる野のはら」は入野の俳人「関ト」その子「時風」等によって万葉集に詠われた「歌枕のいる野」であると顕彰され
俳諧の里として一茶も訪れ和歌や俳諧発句を詠んでいる。
 裏面には土居出身の日清日露大東和戦没者名が刻まる。
 現在ススキが原入野公園として二百余本の「そめい吉野桜」が見事に咲きそろい遠近の花見客で賑合う。

「平和記念の碑」
・今上陛下御誕生記念梅園に財団法人日本傷痍軍人会によって「平和記念の碑」が、
桜の中の「英魂碑」と向き合う形で
立された。
・裏面には会員44名の名が刻まれている。
・土居総合支所から二,三分のところに位置して南に抜ける宮前道路を挟んで東側に梅園が広がる。
・左図は江戸時代の 入野村絵図
右図一茶の
懐 紙


   過入野原作歌一首   山麻呂

「ものゝふの……いる野の原の…見れどあかぬ鴨」
         反 歌
「道遠み尋ね入野の……つみけり」
        俳 諧
野を懐かしみ一夜寝にけるよりは吾…」   発 句
花押
「行戻り尋ね入野の花見哉
       さしのゝ新羅 房一茶
解説
 全半は反歌をともなった長歌、後半は俳諧・発句 そしてそれぞれの詠者を「山麻呂」と「新羅房 」とし さいごに落款を押した一茶の懐紙
 松山からの帰路曉雨館に三泊した一茶は、そのお礼に清書して山中家に遺したものか。山中家蔵書。
 長歌・反歌・俳諧・発句を一枚の懐紙にしたため「松山への行き戻りの「歌枕の入野の花見」を詠じている。
 長歌は本歌とり、反歌は一茶自身の西国紀行と一部異なる本歌とりで住吉宮(現土居神社)に詣でた証を詠み込んでいる。
十六代宮司真跡拡大し拝殿に向拝に境内の大松の根と共に、平成十一年奉納
U土居神社の句碑・歌碑(江戸中後期)の巻その1

肖像画一茶一茶の懐紙壷菫
「花蝶蝶また寄る小童 
場所 句碑土居神社境内 加地呉天土居の人加地武兵衛命盛 大庄屋 江戸中期俳人(1719〜1797)当所の俳人関トらと点取り俳諧をもたらした人
真跡拡大
    
同左碑蔭 
 時風の入野顕彰の壮挙をたたえている
花守はなを知らず虫のすだけども聞き人なし人ありて入野の名所もて諸好士のことの葉を集るは時風ぬしの神妙ならんかしく 呉天」
呉天晩年の真跡拡大 場所境内入口手水舎奥

神苑と俳諧
(しんえんとはいかい
「入野のはらの由来

 
南に聳える分水嶺 霊峰二ツ岳に源を発する清流浦山川十六代宮司謹記
 場所 境内入る右手
同左碑蔭「道遠み尋ね入野の花菫ゆかりあればそわれも摘みけり」
一茶の懐紙の反歌は源顕国の「道遠み尋ね入野の壷菫春のかたみに摘みてかえらんと入野を詠んだ歌を西園寺大納言が本歌取り
それを一茶が本歌取りか。拝殿に明和二年奉納扁額あり。
 風君を訪ふ あわず
「霧晴てゐる野に曇るあるじ哉」
右東武二六庵一茶
 時風折り節留守のため 時風を訪ねたが居留守をつかってあえなかったことをゐる野にひっかけて皮肉っている。 時風はまた、断り書きをしている。同じ様なことが北条の風早でも。
明和2年乙酉 関ト時風 奉納公家下賜短冊5首 場所  拝殿正面
 冒頭「道遠ミ」の歌
西園寺大納言の源顕国の歌の本歌取り短歌。
「過入野原作歌一首」
一茶の懐紙 真跡拡大
 拝殿 
正面右脇
拝殿の境内樹齢300余年銘木松古株を額に奉納の
一茶の懐紙
長歌 反歌 俳諧 発句
「打むれてすみれ摘みつゝなかき日も入野ゝはらにくらすもろ人関ト
歌碑場所
拝殿北
者 山中與一右衛門 山中九代目庄屋俳号時風住居号は暁雨館
幼いころより神童といわれ拾弌斎で淡々に入門和歌の嗜みも多しと。真跡拡大
桂男の落とし子もあり溜まり水 関ト 
場所 境内拝殿北側 句碑 関ト真跡拡大 作者 山中與一右衛門 山中八代目庄屋 住居号は竹寿軒。環風林ともいう。この句は淡々が最高点150点をつけた秀句という。                   
              V土居神社の句碑・歌碑(江戸中後期)の巻その
「ほん心はいかに入野ゝ女郎花きん鳥
句碑場所境内拝殿北側
作者 山中みち関ト室
俳号 錦鳥 
女流俳人としてその名が知られており医王寺に妹みちと妙照閣を建てたという。
「ほん心はいかに入野ゝ女郎花  きん鳥」
桂男の落とし子もあり溜まり水 関 ト」

場所  両句碑の北側
解説石 作者の経歴
行戻り尋ね入野ゝ花見哉 むさしのゝ新羅房  一茶
句碑場所旧本殿西側境内 詠者 むさしのゝ新羅房に一茶の落款 一茶の懐紙の文末の発句なり寛政七年紀行松山からの復路に詠む。真跡拡大。
・懐紙の全文は拝殿に奉納。
「影ひとつ神の月見の小橋かな 覧水 句碑 場所 拝殿南側 詠者土居の人三宅与右衛門康寿 
俳号覧水
この句は寛保三年願主呉天奉納歌仙二百巻に見える。
呉天二十五歳の真跡拡大
「一時雨逃ゆく跡に社かな  珂啓
句碑場所境内拝殿南側

詠者  土居小林の人

俳号 珂啓
     近藤篤山の祖父
筆  呉天の真跡拡大
祈りけり寝て寝ぬ夜半のほととぎす     呉天
句碑場所 拝殿南側
詠者 加地武兵衛 
   土居の大庄屋 
俳号 呉天

 25歳の真跡拡大
住居号 蒼風林
「うえさせし人にはいかに水仙花      きん鳥
句碑場所 境内拝殿側詠者 関ト夫人 時風   の母 女流俳人俳号 錦鳥 俗名かど暁雨館を訪ねた俳人達を手厚くもてなしたといふ。妹みちと共に医王寺に妙照閣を建てる筆真跡拡大
「唯何とありがとふふる花の雨 時風 」句碑 場所拝殿南側詠者 山中与一右衛門 山中九代目庄屋
俳号暁雨館拾弌斎時風

筆 藤本修堂
「残りなく散るを悋しむな花の色 関ト」
句碑 場所 拝殿南側
作者 山中関ト 辞世の句を生前五句を時風に託したが、この句はその冒頭の句である。時風は関トの辞世の句として選んだのは本の地のみちは直也水の
月。筆 藤本修堂
「御手洗の柄杓動かぬ寒さかな金水臺
句碑 一茶三代目桜南
作者 加地呉天の子
俳号 金水臺柏宇
   土居の人

筆  不詳
伊太祁神社奉納の輯高三千草
の中の句
「神に旅仏に旅も春辺かな 家久
句碑場所
 一茶さくら     の南側
筆  不詳

詠み人 社家矢野家久 伊太祁神社奉納輯高三千草の中の一句加地呉天の時代より60年後 の時代。
山中好夫翁頌徳碑

大正3年御大典奉祝記念
三社合祀神社建築推進の遺徳を称え十五代宮司の建立による。
W暁雨館跡(旧山中邸)の巻
  住居号竹寿軒閑トから暁雨館時風      
        寛政七年旧正
九日入野の暁雨館を訪ふ  一茶
大正の頃山中好夫翁邸
 著名な実業家として知られ、神社建築費を多額寄附するなどして神社仏閣の改築の推進に多大の貢献をした。その遺徳を称え拝殿南側に十五代宮司により頌徳碑が建立された
「梅がゝをはるはる尋ね入野かな一茶
句碑 土居町役場東側
     暁雨館跡
建立者土居短歌会

筆   真跡拡大
昭和の頃の山中邸
 煉瓦造りの洋風の建物で玄関は左側東向きであり、手前北側は勝手口通用門である。今から二百余年前の暁雨館の時代に漂泊の俳人一茶は松山への往路に時風を尋ねた際霧晴てゐる野に曇るあるじ哉」の句も遺していると。
入野の風流韻事を物語る一茶の訪れた文化史跡として大事に遺したいものである。     200余年の木立に今も往時を偲ばせる。
愛媛の銘庭30庭にも挙げられているが現在は土居町役場。
背景は環境改善センター建物
信濃の一茶記清水哲氏及び写真家越統太郎氏の撮影による昭和57年頃入野の暁雨館跡
・上左図は玄関
・上右図は長屋門風玄 関入口
・下図は土蔵
新宮村馬立本陣にあったものを移設した。昭和の頃は山中の本家(東)と分家(西)への連絡門のように本家の西出口にあった。
現在は枯山水の庭奥(改善センター)北側に移設されているが破損がひどい。
・上図は暁雨館跡全景 中央に見えるは通用門
・中図は左奥に長屋門がみえる。その奥に玄関正面があった。
・下図は通用門である それに続くのは白塀 の倉。そして、鉾石館の剣道場があった。
潜り門を抜けて奥に入ると枯山水の滝があり、雲のたなびくさまをあしらったもっこくに二百有余年の歴史を偲ばせる俤が残る。竹寿軒に関トを尋ねた二六庵竹阿は「名に古し若葉の奥の一構え」と詠んでいる。竹寿軒は住居号
   X 医王寺界隈・両塚の巻
芭蕉翁(秋風塚)・半時庵(夕月塚)の句碑
時風が建立した当時の元の北面芭蕉翁」と「半時庵朝水居士発句塚の両塚。それぞれ句を刻んだ両塚の前は裏山」から水を引いた池があった安永2年から天明8年の間に建立されたものという。 自動車道開通に伴ない現在は元の場所から北へ約30メートル移遷され東向きに建立されている。んである句からそれぞれ秋風塚・夕月塚となづけ爾来多くの文人墨客訪れ投句した。短冊帳に残
芭蕉翁 表左脇に芭蕉の座右の銘次の句
「物云へは唇寒し秋の風」が刻んであり裏面に、時風建之と刻んでいる。一茶はこの両塚に詣で捧墳前として短冊を遺している。墳であり句碑である。
一茶の短冊 時風の短冊帳には北条の俳人百茂の発句がある。
半時庵朝水居士発句塚をはさんで両側に淡々の命日を刻み左脇に辞世句と思われる「かりのよや畑の夕月朝みどりの句が刻まれている、裏面には門人時風建之と刻んでいる。めずらしい淡々碑
関ト・錦鳥・時風の眠る山中家累代の螢城。墓石の側面には関ト・錦鳥の辞世句の 「本の地のみちは直也水の月  竹寿軒 関ト」
日もたりぬ水のうへおく夜の霜  錦鳥」 が刻まれている。
移遷され整備された現在の医王寺の全景東面の図。
医王寺の裏山には四国征伐の際に焼き払われた廃椎尾寺があったと伝う。
現在の檀家は数軒で小さな堂宇である。
「風老いぬたひたひ垣の虫の声 の辞世句が墓石側面に刻まれた
暁雨館時風覚和居士
寛政八年九月六日没  五十九歳  俗名 山中与市衛門貞の墓
七宝山医王寺の寺名板山中温泉の医王寺と同じ薬師如来が安置されている。山中関ト夫人かどとその妹みちによって妙照閣が脇に建立され風交の場であったという。往時は俳人泰山和尚秋几がいた
芭蕉の幻住庵記
想わせる椎の巨木
子どもの頃この椎の実を拾ってよく炒って食べたものである。広瀬惟然(風羅堂)の風羅念仏の椎の木を想起させる。
「死にしなはみなもの言わぬももの花
        鼠兄
の辞世の句が刻まれた阿部甚兵衛俳号鼠兄の墓がこの墓地の入り口の椎の木の下に眠っている

筆 真跡拡大か
「行戻り尋ね入野の花見哉 むさしのゝ新羅房 一茶
一茶の懐紙より 落款のある句碑境内奥建立
寛政七年紀行の入野の一茶足跡