入野の歌碑・句碑めぐり
入野の原
 
 入野の原(現すすきが原)・右下に住吉明神(現土居神社の鳥居と社が見える)   


上二図は西条誌十七の巻より 右下隅に神社の杜、鳥居と社殿が見える

入野村絵図

   昭和三十年頃のすすきが原真中あたりから西を望む

「紅葉の入野の原」南からの眺め(現すすきが原の秋)
白銀の入野の原
                入 野 吟
風雅集 「あつさ弓いるのの草のふかけれはあさ行く人の袖ぞ露けき 
                               高辻 三位 世良」

土居神社神苑「すゝきが原」と「入野吟歌碑」星田真次揮毫 昭和四十六年梅園に建立

解説板 入野吟 「鈴虫やこれも入野の千代の艸 墨照」 すすきが原梅園
句碑 石は俗称「べにすだれ」学名「紅簾変岩」である。水に濡れると紅になる

kikououro
上は紀行文復路の25日、26日、27日暁雨館3日間。懐紙の俳諧はみえない。 上は紀行文往路の9日発句・前書・長歌次いで「はろばろの反歌」がみえる
           入野の原を過(すぎ)て作れる歌(うた)一首(いっしゅ)
                                    山麻呂(やままろ)

ものゝふの 矢なミつくろひ 立向ひ 入る
野ゝ原の冬こもり 春さり来れば篭 毛與篭持(こもよみこもち)此原(このはら)に若菜摘む妹(いも)石上古歌(いそのかみこか)のこる壷菫(つぼすみれ)いかにと問へば手次(たまだすき)掛乃宣久(かけのよろしく)立留 (たちとま)り吾に見せらくあかねさすうす紫の一花のゆかりの色香(いろか)いろいろに常めづらしミ 乱尾(みだれを)の長き春日(はるひ)に見れと あかぬ鴨(かも)
 平安末期書写の類聚(るいしゅう)本の一つ西本願寺大谷家蔵の類聚古集(編者藤原敦隆)では、 一、籠毛與籠母乳布久思毛與……略(多少誤写がある)…の雄略天皇の御製(おおみうた)がある。つづいて、山部赤人の二七二番の歌の初め「野」が見える。
 つまり、この類聚古集には、万葉集巻一 一番目に雄略天皇の御製が。次いで、二番目に山部赤人の「野」をあげている。(万葉集 巻一 小学館より引用)
 一茶が山中家に遺した懐紙の長歌の題「過入野原作歌一首」は、山部赤人の「野」(二七二番)の「山部宿祢赤人登春日野作歌一首併短歌」が下敷きになっている。山部赤人は、道後に歌を遺すなど伊予には関係が深いが、この懐紙には赤人の歌を下敷きに用いているものが多い。
 懐紙の上句は、金槐和歌集の「ものゝふの矢並(やなみ)つくろふ籠手(こて)のうへに霰(あられ)たばしる那須の篠原」(六七七)や、「わが袖に霰たばしる」(巻十・柿本人麻呂歌集)があるが、後述の「ますらおのさつやたばさみ……」の歌とともに一つになって続いている。
 金槐和歌集には、源実朝が十二歳で三代将軍になり二十八歳の短い生涯の間に、王朝和歌の伝統を吸収し、万葉語や修辞を歌に詠い込んでいるが、冒頭の「ものゝふの」に一茶は想いを込めたか。
 ものゝふはいくさびとのことである。「力のものゝふを目指す」とは大関出島のことばではある。「ものゝふの……」、「いるのゝ……」、「むさしのゝの………」と「ののゝゝ……」の同音反復の韻を感ずるのは思い過ごしであろうか。
 懐紙の前書きには「此里は入野てふ名所にしあれば世々風流人のことの葉もあればやつがれも昔ふりの歌一首を申侍る」とある。
 万葉集巻一 六一番に舎人娘子(とねりのおとめ)が供奉(ぐぶ)して作った歌に「ますらおのさつやたばさみたちむかひ射流円方波(いるまとかた)はみるにさやけし」の歌がある。前述二首をあわせた本歌とりで、万葉王朝ぶりに格調高く和歌に入野(地名)を詠んだか。
 巻十 二二七七番には柿本人磨呂の鹿が野を分け入る「さ雄鹿の入野のすすき初尾花」……略……石の上の古歌のこる入野へと続いていく。
 また、巻一 十六番 額田王 冬こもりは春にかかる。春去りのさりは時間の到来つまり春の到来をいう。入野のはらに春が来たことをいう。
 懐紙の長歌は、短句(五句)と長句(七句)の「二十六句」構成である。長歌の最後「みれどあかぬ鴨」のみ字余りか。鴨をいれるためか。意味のある字余りか。
 万葉集の巻一 一番雄略天皇の御製歌(おおみうた)の「篭毛與美篭持)の( )内のは字余りか。紀行文・往路にもあり。ここは、紀行文往路の「篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持而此原尓 ……」の赤字部分をカットし転記する際のミスか。「篭毛與 美篭母乳 此原尓」か。いずれにしても本歌には「持」であり、「はみえないので疑問の残るところでもある。
 「玉手次(たまだすき)懸乃宣久(かけのよろしく)」は巻一 五番 軍王(こにきしのおおきみ)の山を見て作る歌。玉手次は懸乃に掛かることば。
 「あかねさす」は巻一 二十番 額田王(ぬかたのおおきみ)の天皇、蒲生野に遊狩する時に作れる歌。さすは色や光を発する意。また、ゆかりの色香とあるから香りまでも加わえている。長き春日は、ゆく春を惜しんでなかなか暮れない日のこと。
 「常めつらしみ」は巻三 三七七番湯原王(ゆはらのおおきみ)の歌に「常に見れどもめずらし我(あ)が君」がある。心ひかれて見飽きることがない。「見れど飽かぬかも」は 巻一 六十五番 長皇子(ながのみこ)御歌(みうた)。
 ただ、「御歌の不飽香聞(あかぬかも)」に対して、一茶は「鴨」の文字を当てているのは、冒頭に述べたように意味があるのかも知れない、わざと改行もしている。 一茶には「鴨」には特別の思いがあるようである。小さめの雁のことを鴨という。十五句あり冬の季語雁は秋の季語である。雁は遠いむこうから秋の初めにやってきて春の初めに遠いむこうへ還っていく、定住の故郷をもたない雁。一茶は特別の親近感をもっていたようで雁の句は166句あるという。(宗左近著引用)

 いずれにしても、往路に尋ねたが主不在ということで反歌をともなった入野の原のつぼすみれに語り掛けた擬人化した長歌には、ほとんど金槐集や万葉集を諳んじているかのような本歌とりであり脱帽せざるをえない。山上本では、万葉集 巻一 一番雄略天皇のおおみうたは天皇と美女だが、ここでは誰にも相手にされない乞食坊主とすみれである。でも彼はそれにめげないですみれに語りかける。という。
右は紀行文往路の反歌。左は懐紙の反歌と復路付け加えられた俳諧発句 俳諧には引首印(因某不@)発句にはむさしのゝ新羅房の別号一茶の落款あり
           反 歌 (はんか) 
    (はろばろに)               (壷菫) ※()内紀行文
 道遠(みちとお)ミ 尋つ年(たつね)入野ゝ花菫(はなすみれ)
 ゆかりあればそワ禮(われ)もつミけり」 

 因  不                    jisei no tubosumire  
   某 @ 
 俳 諧  
野をなつ(か)しミ一夜(ひとよ)寝に
ける よりハ吾(われ)度々(たびたび)寝にけり

行戻(ゆきもど)り尋(たづ)ね入野の花見哉(いるののはなみかな)
                                むさしのゝ新羅房
                                        一 茶
 右上の書・反歌は、紀行文(往路)の反歌である。左上の書・反歌には、復路手をいれている。また、紀行文には無い万葉集の山部赤人の「春の野にすみれ摘みにと来(こ)し我そ野をなつかしみ……」の本歌とりの俳諧と「行戻り……」の発句をくわえている。
 むさしのゝ新羅房は芭蕉の風羅房或いは、風羅堂を意識しているところから復路に医王寺の両塚に詣でて二葉の短冊を遺した上での発句であろう。
 懐紙の反歌の「道遠み」と「花菫」(左)の二カ所が、紀行文の往路長歌の次の反歌「はろはろ」と「壷菫」(右)と異なるのは、一茶が復路住吉明神詣でた折りに時風の扁額を目にしたか。扁額の話を聞いていたか。扁額の冒頭の歌は、入野顕彰の際に西園寺大納言の下賜された二首のうちの一首である。源顕国 千載集「道遠みいるのゝはらのつぼすみれはるのかたみにつみてかえらん」の本歌とりである。
 二六庵の後継者を目指す若き勉強家の一茶は、西国への出発にあたり、入野の原や暁雨館については既に関ト・時風父子と風交のあった師竹阿の資料で調べて事前に熟知していたのであろうか。また、この頃本居宣長や大和言葉も勉強していたという。
 「過入野原作歌一首」の長歌の初めの「ものゝふの……射流円方波(いるまとかた)はの舎人娘子(とねりおとめ)の歌の本歌とりにより「入野(イルノ)」の地名を詠み込んでいる。  
 また、万葉集の雄略天皇の御製歌「篭毛與美篭持……」や、次の俳諧では山部赤人の「春の野にすみれ摘みにと来(こ)し我そ野をなつ(か)しみ一夜(ひとよ)寝にける」が下敷きになっている。(上記の(か)は欠字で寛政七年紀行の複製と解説の中で和田茂樹氏の指摘されているところである。)
 一茶は誹諧に諧謔味を加えて俳諧としたか。山部赤人は一夜だが、自分は度々だとでもいうのか。(誹諧は、芭蕉以前のもの。芭蕉以後は、俳諧)
 いずれにしても、松山への途次の往路と復路の行戻りに入野を訪れたことをいっている。つまり、懐紙は紀行文往路の「長歌一首」に復路手を入れて、「過入野原作歌一首」とし、紀行文復路の住吉の宮で句を詠み反歌を推敲し本歌とりとした。そして、医王寺の芭蕉、淡々塚に詣でた上で俳諧と発句を付け加えたものと想われるのである。大小の差はあるが、芭蕉の訪れた山中温泉の医王寺と当所の医王寺のどちらもまつられているのは、薬師如来である。寺名と薬師如来何か通ずるものを感ずる。
 その当所医王寺に発句塚をと山中時風が建立した芭蕉塚と半時庵の両塚は、爾来多くの文人墨客が訪れることとなる。