霊峰二ツ岳
南に聳える法皇の山脈土居三山の真中の二ツ嶽
明けの二ツ岳
北山の愛宕神社・秋葉権現より真南の雄大な霊峰二ツ岳の眺望
    二ツ岳 浦山川
 桜花爛漫の住吉明神(現土居神社)より真南に聳える二ツ岳を望む
霊峰二ツ岳の中腹、西峨蔵山に矛石神社、浦山村中の川に熊野神社、岩原野に表都神社、大屋敷に十二社宮、成に乳母御前社、朝熊に荒神宮三島明神山の神、入野村に住吉明神七福神。北山に京都より勧請した愛宕神社、駿州より勧請の火臥の神秋葉権現と清流浦山川に沿いに南北に一直線上に住吉明神(現土居神社)を真ん中にして、数多くの摂社・末社があり、更に、大地山を越えて瀬戸内海に至る。山に巨石に神の宿る山岳信仰、と共に分水嶺として、往古より水の神を祀る信仰が二ツ岳に生命の源を発する清流に存在した証といえる。   
寛政七年の紀行文」によると小林一茶は、松山からの帰路、旧暦二月の
二十五日 入野の暁雨館に泊まる
二十六日 野辺を逍遥す 折りから住吉に詣で
「楽書の一句拙し山さくら」
二十七日 雨天なれば恭山和尚(泰山?か)と共に土居の人々を訪ふ。
 乙春亭にて、
「雨かすむ貴地のあの山めづらしや 一茶」一茶真筆拡大句碑乙春亭跡地
「やせ蛙まけるな…」一茶を代表する句碑の立つ信濃丘陵地から黒姫山の眺め
  
土居小学校と土居中学校の中間 お賽の木さんを北へ10メートル位入る乙風亭跡 
乙風(三風士の一人)の後裔加藤氏は乙春亭よりの二ツ岳の稜線を詠んだのだろうという。また、中五句から木地師が住んでいたとの説もある。ここ北山から望むと左に入野山、右に畑野山が迫り、その奥に聳え気高くて雄大な二ツ岳程すばらしい眺望はない。そして、土居三山へと続く稜線は、絶景である。上図は一茶のふるさと黒姫山の眺望である。一茶も法皇の山並みに信濃を重ね合わせたのかと下五句に想われるのである。
 因みに二ツ岳は、標高一、六〇〇米余の突出たる岩崖吃立し西方、西峨蔵山の山頂は大小数多の岩が皆鉾の様に吃立して其の形妙義山を思はしめる。故に矛石と名付られ、刀剣の奉納の矛石神社を祀る。其様美にして厳、全く南画の趣ありという。
                 ( 参考  浦山村神社誌 昭和十年編纂土居村郷土史)
 なお、一茶は、乙春亭では次の二句も詠んでいる
 「忌明の伽に来る日ぞ春の雨」    「春雨や独り法談二はいかい」
  三風士に相見して帰る   
付(一部重複)
解説 付 
 口語俳諧の祖といわれる岐阜の俳人広瀬惟然とは、時風も一茶も風交ありしか。時風の次の句が惟然によって(詳細は不明だが)編纂された駒輯に「伊予の人時風の作」として紹介されている。元禄15年というが年代はあわないが。(天理図書館)
         立秋  「何を秋の色とおもへば風ぞたゞ」
 此句鳥落人の申ちらかされしは伊予の時風作とやらん一体涼しければ秋の部をひろふの初とはさだめぬ 惟然編 「二葉集」 天巻 この項 口語俳句の祖 惟然坊評伝「 風羅念仏にさすらう」沢木美子著より引用。
 反歌の次の俳諧に押した引首印は、芭蕉の十傑の一人で、鳥の羽音に散った梅の花を見て悟り感動し、無一物になり世を捨てて、芭蕉に師事し,芭蕉没後は、芭蕉を弔ひ諸国を風羅念仏を踊って巡ったという漂白の俳人弟子惟然。惟然には鳥落人や赤い梅を好んだ梅花仏、風羅堂などの別号がある。鳥の千鳥の足跡風にインボウフ(ウ)チューと印が押されている。「某は梅。」「チューは星。」「不は空に飛び上がり降りて来ないこと。」「因は、よりてである」 引首印には、遊び心や信条を押印したものという。
 漂白の俳人一茶は、自分の俳諧への信条を芭蕉、惟然に重ね合わして、この引首印に凝縮したのであろうか。「風羅念仏」は芭蕉の別号、「風羅坊(風になびく羅を着た坊)」にもとづくものであるが、蕉門の美濃の広瀬惟然(素牛、梅花仏、鳥落人、風羅堂の別号)が、芭蕉の菩提を弔う追善供養のために創作した念仏踊りである。

 沢木氏は一茶もその作風に惟然の大きな影響を受けたというが、時風が医王寺に建立した両塚には、この「風羅念仏」の影響を感じるのである。両塚への途中には往時を連想させる椎の巨木が、昔のままに遺っている。
説 付 
 復路には、すぐ近くの医王寺に俳人「泰山和尚」をたずねている。ここには、時風の母俳人「カド(父関トの室)」が、妹ミチと建てた妙照閣があり、前庭の池には、南の山麓の傾斜地から樋が引かれていた。そして、その池の南の傾斜地には、大人が立って目通りより少し上位のところに、「芭蕉塚」と「淡々塚」の二塚が、時風によって、北向きに建てられていたのである。前者には「物言えば唇寒し秋の風」の芭蕉の坐右の銘が、また、後者には「かりのよや畑の夕月朝みどり」の淡々(半時庵)の辞世の句とも想われる句が刻まれ半時庵朝水居士発句塚と宝暦十二年辛巳三月と淡々の命日が刻まれ、裏には門人時風建之とある。
 古文書を解読されている村上光信氏は此の両塚が建立されたのは時風の遺した文書などから、母錦鳥の亡くなった安永元年以後であろうという。また、入野の吟や両塚に句を遺している矢野社家8代目の墨照は寛政元年に38歳で亡くなっていることなどから淡々の命日には関係なく、恐らく安永2年から天明8年の間であろうという。
 医王寺の東は山中家の関トや時風の辞世の句が刻まれた墓のある累代の螢城である。此の一帯は、聖域として仏をまつり、俳諧・発句塚の地と考えたのではなかろうか。昭和六十二年高速道の開通のための用地買収により、現在は、元の場所から北へ少し下げられて移遷されている。