観世音堂 (千手観音)
お観音さまと呼ばれて親しまれています観音堂です
観音堂の横道は、遠い昔 三間 吉田 宇和島より大洲 野村へ向かう街道として重要な役割を果たして
いた事は言うまでもありません。
当時は、宇和島より松山 大洲へ行くルートは3ヵ所あったようです。地図上で一番西側のルートが法華津峠
越え次に歯長峠越え 最も東よりのルートが板ヶ谷峠越えで距離的には最短ルートだったようである。
そのため、多くの旅人が往来したようで、板ヶ谷のご先祖たちが旅人の健康と旅の安全を祈願して観音堂を
建立し建立後は、この観音堂で旅人たちが夏は涼を冬は暖をとったのではないかと想像する。
観世音堂設立時期は?
足利又太郎忠綱の名前が残っている事から1180年(養和〜建久)以降ではないか?
足利又太郎忠綱
1180年宇治川の合戦で有名である。
平家物語の名場面にもなっている。
合戦後源氏に追われて四国に逃れこの地に移住したとされる。
歯長城を築城したとも伝えられていることから 歯長又太郎 とも呼ばれていた。
現在の建物は江戸時代
寛政2年10月17日(1790年) 改築
文久3年8月吉日 (1863年) 再建と記してある。
千手観音像台座には元禄2年10月18日(1690年)改修と記入してある
ことから1690年には観音堂が存在していたと思われる。
観世音様祭礼
昭和初期頃までは盛大に行われていたようです。
現在は8月10日に地区住人が細々とお祭りをしています。
千手観音
仏教における信仰対象である菩薩の一つで観音菩薩の変化身 六観音の一つ
文字どおり 千の手を持つ の意味であり千本の手はどのような衆生をも漏らさず
救済しようとする観音の慈悲と力の拡大を表している。
千と言う数字は数ではなく 無量 と言う意味があり あらゆる人々を救い
願いを叶えると言う。
実際には千本ありません。(千本ある観音様もあるらしい)
板ヶ谷の観音様は42本です。(ほとんどの観音様が42本のようです)
では、なんで千手観音と言うのか?
観音様は一本の手で25の世界を救う事ができます。
後ろに40本の手があるので 40×25=1000 になります。
この説明は おかしいと思われた方
観音様の手は42本あるので 42×25=1050 が正解ではないか
と言われると思います。 私もそう思いました。
観音様が言われるには、前で合掌している2本の手は 人間にもあるので
数えません との事でした。
こんなに立派な観世音様があることをご存知でしたか?
今度 板ヶ谷に帰省された時に観音堂に行って見てください。感動ものです。
一番左の写真が初代の観音様だそうです。
この初代の観音様は一度盗難にあいましたが何日か後に
わらふき屋根よりでてきたと言い伝えがあるようです。
二番目の写真もかなり古いものですがいたみが酷くどういった
ものかわかりません。
三番目は天井板の絵ですこれも雨漏れによりシミができており
色も変色しております残念です。
馬頭観音
もう一つの観音様 馬頭観音
現在は、この場所(サンクロ)に祭られておりますが以前は
どの場所に祭られていたかご存知でしょうか?
そうです、お宮の下の陽の当たらないうすきみ悪い所でした。
昼間でもうす暗いところを日が暮れて一人でここを通る時は
ほんとうに怖い場所でした。
道路上に祭られておりましたので、「上から何かが出てくるのでは
ないか」といつもここは小走りに通っていたように記憶してます。
馬頭観音
菩薩の一つでサンスクリットでは「馬の顔を持つもの」
の意味があり観音菩薩の変化身で六観音の一つである。
日本語では、馬頭観音菩薩 馬頭明王 など様々な呼称がある。
普通は、観音様といえば優しい顔立ちですが馬頭観音だけは
なぜか怖い顔をしている。
頭上に馬の頭を置き、三面六臂(ぴ)「三つの顔と六本の手」
なかには三面八臂、一面二臂 など色々な形があるらしい。